第10回 黒船来航〜その7
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:六角なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
林復斎VSペリー〜第3ラウンド
↑林復斎(左)とマシュー・ペリー
それで、ペリーは開港についてどんな要求をしてきたの?
当初の要求は1カ所だったのに、交渉の段階になって5カ所とふっかけてきた。これは清との間に結んだ望厦条約に倣ったものだ。
いかにも欧米人らしいしたたかさよね。その点、日本人は正直だから、言われるとすぐに真に受けちゃうのよね。
これには林復斎も頑として受け付けなかった。そこでペリーは、浦賀、神奈川付近、鹿児島、松前、琉球のうちの3カ所という譲歩案を出してきた。しかし、この案も林復斎は受け入れなかった。第一、鹿児島と琉球は薩摩藩の管轄で、幕領ではないからね。でもそうなると、話し合いは平行線。そこで復斎は一旦、この問題を江戸に持ち帰ることにした。嘉永7年2月22日、江戸城に登城した林復斎と井戸覚弘は、早速、徳川斉昭を含む幕閣と話し合った。
攘夷派の斉昭公は真っ向から反対したでしょうね。
いい読みだね。その通りだ。でも、もともと開港に関しては、1カ所については認める腹だったから、ペリーの案にはなかった下田を提案しようということになった。これは、日本側から提案することで、交渉のイニシアティブを取ろうという作戦だね。
結構やるわね。相手の言うことを丸呑みしないことで、嘗められないようにしたのね。
下田案は江戸湾の良港ということで、ペリーにとっても悪い話じゃなかった。しかし、捕鯨船が通るルートとしてどうしても確保したいのが津軽海峡だ。そこで松前だけは譲れない、ということになって、再び強硬姿勢を取る。
林さんは大変ね。一難去ってまた一難ってとこね。
これ以上の抵抗は難しいと判断した林は、最終的に下田と箱館(函館)の2港開港で譲歩した。そうなると次は外国人がどの程度自由に行動できるかというテーマになって、これについては双方の意見を調整した結果、下田港中心より半径7里(27.5キロ)、函館港中心から半径5里と決まった。ここで第3ラウンド終了。日米和親条約の締結が決まった。
第3ラウンド、蔵三さんの判定は?
ペリー側は攻めに攻めたけど、結局2港開港にとどまったからプラマイ0ポイント。林側は最終的に妥協したけど指定場所を巧みに外したからプラマイ0ポイント。結果はイーブンだね。だけど、終了ゴングの間際に、ペリーはこっそりと、後でじわじわ効いてくるボディブローを打ち込んでいたんだ。
えっ、何なの? ボディブローって?
領事だよ。幕府側としては領事を置く必要はないと考えていたけど、ペリー側は領事を置くことが通商の第一歩だからね。ここにきて、英語とオランダ語を交えた通訳、さらに英語、オランダ語、漢文の3種類を使った条約文という複雑な形式が災いする。実は日米の条文に違いがあったんだ。
え〜、そんなことってあり得るの?
通訳の問題か意図的なものか、今となってはわからないけど、日本側がアメリカに渡した日本語版および漢文版では、領事駐在は両国の合意が必要とあるんだけど、アメリカから渡された英語版とオランダ語版では、アメリカの考えだけで置けるということになっている。。
全然違うじゃない! それでどうなっちゃったの?
同じ文章に両方の代表がサインするが普通だけど、この場合は、日本側の代表は日本語の文章にしかサインしていないし、ペリーは英語の方にしかサインしていない。ただし、交渉現場にいた徒目付・平山謙次郎の記録には「18ヶ月経ったならば、どちらかの国が認めたとき領事を置くということに合意した」と書かれているから、林復斎はこの違いを知っていながら調印したということになる。
何か思うところがあったのかなぁ。
この点は大きな謎だ。アメリカの要求通り、1年半後にはハリスが下田に来るんだけど、そこで日本側が条約違反と訴えた記録もないからね。むしろ当時の幕府は、アメリカ人の行動範囲が下田港中心より半径7里という点についてのみ、「林が勝手に決めた」ということで問題視したんだな。結局幕府から林復斎に下った命令は、再交渉して行動半径を縮めよというものだった。
何かピントがずれているような気がしないでもないけど…。林さん、頑張ったのに可哀想ね。
ペリーは開港が決まった函館を視察に行ったあと、下田に寄って林復斎と再度会談を持った。そこで林は必死に行動半径についての再交渉を持ちかけるんだけど、すでに条約の書類がアメリカに送られてしまったということで、ペリーは受け付けなかった。林は仕方なく、細かな条項を追加するにとどまり、それ以上の交渉を断念するしかなかった。ここで追加された条約が最初の下田条約で、余談だけど、この時にこっそり渡米を企ててペリーに断られたのが吉田松陰だ。
林さんはペリーと幕府の板挟みで苦しんだけど、これでやっと試合終了ね。
まぁ、林復斎以下、幕府側の代表は良く頑張ったんじゃないかな。ただ、条約締結に反対していた徳川斉昭を筆頭に、その後攘夷派が台頭してきたこともあって、林らの頑張りが正当に評価されたとは言い難いし、ペリーにしても、200年以上続いた日本の「鎖国」を解くことには成功したけど、帰国後すぐに南北戦争が起こってその偉業がうやむやになってしまうという不幸があったんだよね。
2人はお互いに精一杯のいい試合をしたのに、評価は逆だったのね。
そんなわけで、日米は対立することなく、あくまで友好的に国交を結ぶことになった。そんなわけで、条約が結ばれる前後に、日米で初めての公式な国際交流が持たれるんだけど、その中で食事接待あり、異種格闘技戦ありと、さまざまなエピソードが生まれるんだ。
異種格闘技戦って、江戸時代からあったのね。それは面白そう!
それじゃあ、その話はまとめて次回ということに…。
←下田条約の舞台となった了仙寺