第11回 俊才現る
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:六角なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
わずか1年で有名人に
読者の方からメールをいただいたんですけど…。
プレゼントをくれるなら現金か商品券がいいな。最悪、抽選前の宝くじでもいいけど…。
誰もそんなこと聞いてないじゃないですか。いいですか、読みますよ。「先日、NHKのEテレで岩瀬忠震を取り上げていたので、興味を持ってネットを検索していたら、このサイトに辿り着きました。でも、10回も連載しているのに、岩瀬忠震がほとんど出てきません。これから登場するのか、それとも何かの間違いでしょうか」。
何かの間違いじゃないよ。時代背景や当時の状況がわからないと、岩瀬の業績が「不平等条約を結んだ張本人」みたいに思われかねない。だから、懇切丁寧に説明してきたんじゃないか。ここに来るまで10回かかったからって、それが何だよ。岩瀬はどこに生まれて何歳の時にウンタラカンタラみたいな、デイヴィッド・コパフィールド的な説明はしたくないってサリンジャーも書いてただろ!
サリンジャーって、何のことだかわからないけど、とりあえず今回はペリー来航時の異種格闘技戦の話でしたよね。
フン、読者からクレームが来るようじゃあ、この蔵三の名がすたる。今回からやってやろうじゃないの。今までは前菜、今日からメインディッシュだ。異種格闘技戦とか日米接待合戦の話は今週(7/23)から始まった「
大江戸四方山話」で取り上げることにしよう。
え〜、せっかく楽しみにしてたのにぃ〜。
岩瀬忠震の出自については、以前話したと思うけど、文政元年(1818)に、三河国設楽六か村の領主、旗本設楽市左衞門貞丈の三男として生まれた。設楽家は伊達政宗の子孫で、領地は今の愛知県新城市にあたる。だから新城出身だと勘違いしやすいんだけど、実は江戸生まれなんだ。でも、新城市の設楽原歴史資料館には、郷土の偉人として、忠震の遺品や書画なんかがたくさん保管されている。
あれ? 本当は設楽さんなの? 岩瀬さんじゃないんだ。
忠震21歳の時にお父さんが亡くなる。もともと三男で継嗣ではないから、800石の旗本・岩瀬忠正の家に養子に出たわけ。で、同時に岩瀬家の長女と結婚する。これが23歳の時で、当時の通称は忠三郎。
岩瀬さんは、マスオさんだったわけね。
中村主水だってそうだろ。江戸時代の旗本や御家人の間ではごくありふれたことなんだ。跡継ぎがいないと家を潰されるからね。お家が断絶すれば禄がもらえなくなって、家族全員と使用人が路頭に迷うわけだ。旗本なんてのは要職に就いていなければ普段そんなに忙しいわけじゃないから、家を潰されないかぎりは楽ちんで安泰だ。
でも、岩瀬さんは楽ちんな人生を歩まなかったんでしょ?
血は争えないということさ。母方の祖父が林述斉、叔父が復斉だからね。子供の頃から林家の何たるかを母親から聞いていたはずだし、祖父や叔父のいる江戸に行って、学問で身を立てようと思うのは自然の流れだ。忠震が昌平黌の卒業試験にパスしたのは26歳の時。学業優秀のため、水野出羽守から褒美を受けたと記録にある。この時の出羽守は沼津藩主・水野忠武だと思うけど、この人は翌年21歳で亡くなっているから、確証はないけどね。
ということはトップクラスの成績で合格したという事ね。
甲・乙・丙のうちの乙だから、トップクラスというわけではない。ご褒美というのは乙以上、つまり合格者全員にあげるものだからたいした意味はないんだけど、昌平黌の卒業試験、正式には学問吟味というんだけど、これは官吏登用試験も兼ねている。しかし、忠震が部屋住みのまま召し出されて西丸御小姓番士になるのが32歳の時だから、この間6年の空白がある。
部屋住みって何のこと?
一般的に禄をいただいて登城できるのは岩瀬家の当主と決まってから。つまり、養父が家督を譲らないと官職をもらえないわけ。だから、この6年間は養父が隠居するまで待っていたということになる。つまり、32歳まですねかじりのプータローだったわけ。
江戸時代って、どこの家でもそうだったの?
そうだよ。これも特に珍しいことじゃない。だから忠震が優秀でなかったというわけではない。学問吟味も、採点するのは林家だから、むしろ身内に厳しくしたのかもしれない。その証拠に、官職に就いたその年に、幕府直轄領の甲府にある学問所、徽典館(きてんかん)の学頭に任ぜられている。ここは今の山梨大学の前身で、昌平黌の分校みたいなものだったからね。いきなりここの学頭になるいうことは、いかに学者としての将来を嘱望されていたかということだ。
確かに、普通の社会人一年生がなれる立場じゃないわよね。
忠震が甲府にいたのは1年あまりだけど、赴任の際に老中首座・阿部正弘から時服を拝領という記録がある。しかも、甲府から帰った直後に、学頭としての功績が認められて松平伊豆守信古より白銀15枚拝領という記録も残っている。
ということは、岩瀬さんはわずか1年で…。
そう。甲府にいた1年の間に幕閣に知れ渡るほどの俊才ぶりを発揮したということだ。ということは、忠震の「空白の6年」は、昌平黌で着々と教授への足固めをしていたと考えられるし、甲府に行く際にわざわざ老中首座から餞別をもらったということは、すでに期待の新星として認められていたということだ。
そうかぁ。っていうことは、決して遅咲きではなかったのね。
むしろ異例のスピードと言ってもいい。江戸に戻って待っていたのは教授の椅子だ。嘉永4年(1851)、忠震34歳の時だ。そしてもっと驚くのは、教授として優秀だということで、その年の暮れに叔父の林復斉から白銀5枚を頂戴している。
それも、さすがに身内びいきってわけではなさそうね。
翌年の暮れにも白銀5枚をいただいているからね。とにかく優秀な教授だったことは間違いない。
徽典館は明治になっても存続した。明治17年(1884)に建てられた2代目校舎→