第16回 日露和親条約〜その5
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:六角なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
ロシア人を救った日本の技
アメリカの黒船についてはワタシでも知ってるけど、ロシアの黒船っていうのはあんまり聞いたことがないわね。
まぁ、アメリカが幕府の鎖国政策を武力を背景にこじ開けたということで、幕藩体制崩壊の序章としてペリーが語られることが多いわけだけど、実際の交渉はそれほどドラマチックでもセンセーショナルでもない。むしろ今まで説明してきたように、幕府側にある程度の情報も準備もあったから、スムーズに進んだといっていいだろう。その点このプチャーチンとの交渉は、その途上でいろんなアクシデントがあったから、むしろドラマチックで興味深いんだ。
その時のロシアは、アメリカみたいに武力を前面に出してきたの?
いや、極めて紳士的だった。これには前回話した高田屋嘉兵衛の事件なんかを通じてある程度日本と日本人に関する情報をロシア側が持っていたということと、ロシアがまだ帝政の時代で、政治家や軍の高官が貴族であったことも大きい。
あ〜、前回言ってた「騎士道」っていうことか。
そう。リコルドも嘉兵衛の「武士道」に共感したわけで、その点、民主主義国家で階級制を持たないアメリカ人は、そういった階級的矜持を大切にするよりも、「話し合うより銃を向けた方が早い」という合理性の方が勝っていたんじゃないかな。
確かに。自分の国だって先住民を追いやって開拓していったわけだもんね。
プチャーチンと川路、筒井の会談は嘉永6年12月(1854年1月)に始まった。合計6回、両者は交渉のテーブルに着いたんだけど、この時はまだアメリカに対しても幕府側の結論が出ていなかったから、川路たちも答えようがなかった。ただ、ひとつだけ確かなのは開国の際には他国にも同様の条件で条約が結ばれるだろうということ。
う〜ん。今までのいきさつを考えると、そういう風にしか答えようがないわよね。
プチャーチンはその話を双方の合意と見なして、一旦日本を離れる。そして老朽化していたパラルダ号から、嘉兵衛が乗っていたディアナ号に乗り換える。その間に日本ではペリーの再来日によって日米和親条約が結ばれ、ロシアとの国交も時間の問題だった。
2番目の交渉はアメリカの前例があるから楽よね。
ディアナ号が日本に戻ってきたのは嘉永7年8月(1854年10月)。当初は函館に来たんだけど、すでに外交交渉の場は下田に移っていたから、2カ月後に下田に入港して、再度川路、筒井が下田に向かうんだけど、ここで予想もしなかった事態が起こる。
あらら、まさか戦争になったとか?
そうじゃない。交渉開始直後の11月に安政東海地震が発生するんだ。これは最大震度7っていうから、東日本大震災と同レベルだ。まだ記憶に新しいと思うけど、あの時何が起こった?
大津波で大変な被害が出たわよね。あ、そうか。津波かぁ。
停泊中のディアナ号は大破して、ロシア側にも大勢の死傷者が出た。それでもディアナ号の乗組員たちは日本人数名を救助して手当までしているんだ。
ロシアの好感度がグ〜ンとアップするわね。明治になって戦争するなんて信じられないくらい。
幕府側もこれに応えた。プチャーチンが船の修理を依頼すると快く応じたんだな。伊豆の戸田(へだ)村を修理地に選定して、翌年の安政元年11月に応急処置を施したディアナ号を向かわせた。ところが、だ。
あら、また何かあったの? 今度は台風とか?
台風ではないけど、航行中、強風と高波で、壊れた船が耐えられなくなって浸水し始めた。この時戸田の漁民達が舟を出して乗組員は助かったけど、ディアナ号は漁船で曳航を試みるも失敗、伊豆の海に沈んだ。
それじゃプチャーチン一行がロシアに帰れないじゃない。
そこで今度は幕府に新船建造の許可を願い出た。幕府としてはこれまでのいきさつからロシアに好印象を抱いていたのと、洋式船建造のノウハウが学べるという意図から、無事にロシアに帰国できたら船を返してもらうという条件でこれを了承する。
何かロシアに対しては、最初の頃とは違って友好ムードなのね。
すでに幕府は外交路線に転換していたからね。船はディアナ号にあった設計図をもとに100日という厳しい条件で造られた。設計と指導はロシア人、施工は日本の船大工という日露合作だ。しかし、さすがにディアナ号のような200トンクラスの船は無理だから、半分ぐらいの小型スクーナーになった。
船大工さんは初めて外国の船を造るわけでしょ。よくやったわね。
「ものづくり日本」の真骨頂は、すでにこの時代にあったわけだね。さて、船を造っている間に交渉は再開された。この時幕府は、川路、筒井に加えて、新たな担当者を派遣する。
あっ、わかった。岩瀬忠震さんね。やっと真打ち登場って感じ。
その通り。ただ、岩瀬がプチャーチンと面談したのは2月24日。実は2月7日に、すでに5回の会談で日露和親条約が締結されている。だから、岩瀬は実際の交渉には参加していないんだ。
じゃあ、何のために行ったのよ。
ひとつは細かい修正条項を決める助っ人として。もうひとつは岩瀬が日本外交の「新しい顔」になるという幕府側の意思表示だね。そして「外交ノウハウを現場で学ばせたい」という老中・阿部正弘の意図もあったと思う。
つまり、岩瀬さんの外交デビューっていうことだ。
そう。日露和親条約の成果は、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれたこと。樺太には国境を設けないで、両国民の居住を許可しましょうということ、あとは箱館、下田、長崎の開港、領事の常駐と、ほぼ日米和親条約と同じ内容だ。
ところで船はどうなったの? 無事完成したの?
約束通り100日、安政2年3月に完成した。感激したプチャーチンはその船を「ヘダ(戸田)号」と名付けた。そして初の日露合作船は無事ロシアに乗組員60名を送り届ける。幕府側はその時の造船ノウハウを活かすために同型の洋式帆船を量産していくんだけど、これを「君沢型」と呼ぶんだ。小型の帆船で軍艦には向かなかったけど、練習船や輸送船として活用された。天災が思わぬ外交を生んで、それが日本の造船技術発展にも繋がっていったわけだ。
←ヘダ号図。日本返還後は「君沢型一番船」と呼ばれていた