忘れられた偉才・岩瀬忠震

第2回 忘れられた偉才〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:六角なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

歴史は勝者が作るもの

それで、そのイワセナントカさんの事なんですけど…。



岩瀬忠震(ただなり)ね。早く憶えなさいよ。簡単に言えば幕末の外交官であり、日露和親条約、日米修好通商条約の締結を成し遂げた人物だ。日本が欧米列強の食い物にされないように、巧みな交渉と理詰めのディベートで守り抜いた大人物だよ。アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは彼のことを「懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき」と絶賛している。

そんな立派な人なのに、どうして他の幕末の志士みたい有名じゃないの?



今の大河ドラマね、出来については賛否両論あるけど『平清盛』でしょ。その清盛だって長い間悪党イメージが強かった。本当は織田信長クラスの革新的な政治家だし、残された文献を見てみると、悪党どころかとても情の深い「気配りの人」だったこともわかっている。その清盛に悪党イメージがついたのは、ひとつは皇室と対立したからであり、さらに源氏政権になってから『平家物語』を始めとして、平家悪者キャンペーンを大々的に行ったからなんだ。
へぇ〜、清盛って本当はいい人だったんだ。じゃあ、岩瀬ナントカさんが有名じゃないのは誰のせい?


だから、早く憶えろって。当然、明治新政府の仕業だよ。優秀な幕臣が欧米列強から日本を救ったなんて事が公になっては困るだろ。それじゃあ、なぜたくさんの血を流してまで倒幕しなければならなかったのか、筋道が立たなくなる。日米修好通商条約だって、不平等条約だったなんて悪いことばかり教科書にも書いてあるけど、日米の国力差を考えると、よくぞここまで持っていったなと感心させられるよ。

ふ〜ん。歴史って勝った方が自分たちの都合の良いように作り替えちゃうのね。



そう。だから「公文書」なんてものを迂闊に信用しちゃいけない。テレビドラマの『運命の人』を観てもわかるだろ。都合の悪い内容は隠され、都合の悪い人物はお払い箱にされる。岩瀬忠震もそんな運命を辿った一人だ。

ちょっと興味がわいてきたかも。肖像画を見るとなかなかハンサムだし、頭も良さそう。


もともと旗本設楽家のの三男坊で、伊達政宗の血を引く由緒正しい家柄なんだ。天保の改革で暗躍する幕末の“妖怪”鳥居耀蔵や日米和親条約でペリー相手に堂々と渡り合った儒学者の林復斎は母方の叔父だ。同様に“悲劇の外交官”としてもっとクローズアップされてもいい外国奉行・堀利煕は従兄弟に当たる。

う〜ん、どの名前を聞いてもピンとこないのはワタシだけ?



まぁ、無理もないね。それだけ幕末というのは薩長土肥だけが主役の時代になってしまっているんだ。第一、ペリーやハリスは誰でも知っているけど、日本側の代表を誰も知らないというのはおかしな話じゃないか。だいたい平成の今でも、幕府は明治政府に参加した勝海舟や榎本武揚たち以外は、まるで能なしの集まりみたいに扱われているよね。

そう言えば、幕府側って「新選組」とか、暴力的なイメージもあるわね。



新選組も含めて、殆どが京都の話だろ。その頃江戸で何があったかなんて事は結構知られていない。開明的な思想を持った幕臣もたくさんいたんだよ。坂本龍馬だけじゃないんだ。岩瀬忠震もバリバリの開国派だった。

どうしても幕府は開国したくなかったっていうイメージが強いのよね。鎖国が長かったから?それとも開国した井伊直弼が暗殺されたから?


まぁ、誰でもそういう誤解を持つだろうね。だけど、もともとは長州だって開国には猛反対だったんだ。薩摩も(島津)斉彬の時代には開国派だったけど、久光の時代になって生麦事件を原因とした薩英戦争を引き起こしてるし。いわゆる尊皇攘夷の時代ですよ。

明治時代になってからは服装から髪型まで、どんどん西洋を取り入れているのにねぇ。



薩摩は薩英戦争で、長州は下関戦争で欧米の武力をまざまざと見せつけられ、それから真の近代化に目覚めるんだ。なんでも一度は痛い目にあわないとわからないということかな。

じゃあ、岩瀬さんは幕臣としても、当時の一般的な日本人としてもかなり進んだ考え方の人だったのね。


最初からそうだったわけではないと思うよ。若い頃は幕府が設置した学問所である昌平黌(しょうへいこう)に入門している。これは忠震の母が林家8代当主・林述斎の娘だったことを考えると、当然の成り行きだろうね。だから忠震が学んだのは蘭学ではなくて、儒学や朱子学だ。その後一時は徽典館の学頭として甲府に赴任するんだけど、江戸に戻って昌平黌の教授になるんだ。

それじゃ、西洋の学問を学ばなかったってこと?それなのにどうして開国派になったの?


やはり、ペリーと粘り強い交渉をして開国にこぎつけた叔父の林復斎の影響が強いんじゃないかな。


←日露和親条約や日米修好通商条約など、さまざまな国際交渉の舞台となった静岡県下田市・玉泉寺にある(最初の)米国領事館記念碑

ページトップへ戻る