忘れられた偉才・岩瀬忠震

第5回 黒船来航〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:六角なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

野田総理の幕末版?

アメリカはイギリスやフランスみたいに、アジアの国々を植民地にしようと考えて日本に来たのかな?


欧米列強にとって、一番の魅力は清、つまり中国だ。今なお世界最大のマーケットだからね。その点、日本はどちらかというと清に向かう上での中継地点という考え方だね。国交があれば蒸気船には不可欠な薪や食糧、水なんかを調達できるし、海が荒れた時には寄港して安全も確保できる。もちろん、最悪難破しても乗組員の救助が期待できる。だから当時のアメリカとしてはまず国交だな。

ふ〜ん、じゃあ、あくまで平和目的という事ね。



完全にそうとは言い切れない。幕府の管轄地域に関しては国交が目的でも、琉球や小笠原近辺は領土にしようと考えていたフシがある。当時のアメリカは捕鯨国だったから、小笠原なんかには結構立ち寄っていたんだ。実際、ペリーは浦賀に来る前に琉球にも小笠原諸島にも立ち寄っている。
えっ、アメリカって捕鯨国だったの?それは初耳だわ。



有名な「白鯨」という小説を書いたメルヴィルは、もともと捕鯨船で働いていたアメリカ人だ。産業革命以降、生産性を上げるために夜も工場を稼働していたから、大量の灯油が必要だった。それで着目されたのが鯨の油、鯨油だ。

へぇ〜、油が目当てだったのね。じゃあ、お肉は食べないの?



日本人みたいに肉も油もひげも骨も全部使うのではなくて、油を絞ったら捨てちゃう。そんな風だから19世紀中頃の最盛期にはイギリスとアメリカを中心に世界中で乱獲が始まり、これはペンシルベニア州の油田発見、つまり石油が主流になるまで続くんだ。

ってことは、鯨が減っちゃったのは日本のせいじゃないってこと?それで良く批判ができるわね。


過去は過去って割り切るのが欧米流の考え方だからね。あれだけ清に酷いことをしといて、イギリスもフランスも謝ったことがないだろ。アメリカだって民間人を無差別に殺した原爆投下をいまだに謝罪しない。9.11の時はあれだけ抗議したくせにね。

その点謝ってばかりの日本って、何かソンよね。



まぁ、その話は置いといて、アメリカ政府としては、武力による侵略の意志はないとしても、武力による威嚇は有効だと考えていた。これは、アヘン戦争を検証した結果、アジア人は西洋の近代兵器の前には無力であるという結論だな。

結局、黒船って4隻も来たんでしょ。みんな武装してたの?



旗艦「サスケハナ」を筆頭に、「ミシシッピ」、「サラトガ」、「プリマス」の4隻だ。大砲は計73門。こうなると立派な「恐喝」だね。


そんな重装備で来るっていうことを幕府は知らなかったのかな?



いや、前にも言ったようにオランダからの「風説書」である程度は知っていた。でもフェートン号の時と同じ「平和ボケ」で、長崎奉行は「オランダの言う事なんて信用できません」なんて言うし、東インド艦隊は弘化3年(1846)にも浦賀に来航したことがあったんだけど、そのときは拒絶したらあっさり帰っちゃったから、どうせ今度も帰るだろう、なんてタカをくくっていたんだ。でも、筆頭老中の阿部正弘は、薩摩からアメリカ艦船の詳細なリポートを聞いていたから、かなり危機感を持ってはいたようだね。

じゃあ、幕府は何か手を打っていたの?



弘化2年(1845)には阿部正弘が中心になって、国防を担当する海岸防禦御用掛(海防掛)を設置していたんだけど、実際には三浦半島に増兵したぐらいだね。当時、日本には遠洋に出る大型船も軍艦も造られていなかったから、海岸の警護を固めるぐらいしかできなかったんだよ。家光の時代なんかに比べたら幕府の影響力もだいぶ弱まっていたからね。

じゃあ、何の準備もできないままに黒船の来航を許しちゃったわけだ。



肝心の第12代将軍徳川家慶は病気で寝たきり。とても有事に対応できる状態じゃなかった。しかもその代役となるべき阿部正弘は、強烈なリーダーシップを発揮するタイプではなくて、みんなの意見を聞いてまとめていくような「調整型」のリーダーだった。だから、トップダウンによる意思統一ができない。

あ〜、何か野田さんを思い出しちゃった。



う〜ん。確かに、阿部正弘という人はポッチャリ型で穏和で、野田総理みたいな感じなんだけど、ちょっと違うんだな。見た目の柔らかさとは裏腹に、なかなかしたたかな人なんだ。25歳の若さで老中になって以来、天保の改革で有名な水野忠邦一派を追放したり、焼失した江戸城の再建にも努めている。そして何よりもこの連載の主役である岩瀬忠震を始め、勝海舟、永井尚志、高島秋帆、川路聖謨、江川英龍といった後に大活躍する若手を抜擢したのもこの人なんだ。

野田さんも、すぐに罷免されるような大臣ばっかり指名しないで、優秀な若手を抜擢して欲しいわよね。


あはは。でもね、その分反発も凄かった。だから薩摩の島津斉彬とか水戸の徳川斉昭といった雄藩の「名君」をブレーンに加えて、とにかく意見を聞くことに徹したんだ。この阿部正弘という人はいまだに評価の分かれる人なんだけど、若手登用も幕閣以外の藩主を幕政に参加させるのも、当時としては凄く異例なことだったんだよ。

            阿部正弘の肖像画。二世五姓田芳柳筆・福山誠之館蔵→

ページトップへ戻る