第8回 黒船来航〜その5
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:六角なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
林復斎VSペリー〜第1ラウンド
↑林復斎(左)とマシュー・ペリー
さぁ、いよいよ幕府側とアメリカ側の交渉が始まるわけね。
日米和親条約の締結という結果だけはみんな知っていると思うけど、どんな交渉だったのかは殆ど知られていないよね。まず、林復斎以下、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の日本側代表4人は、当然浦賀に現れるものと思って浦賀の臨時応接所で待機していた。ところがペリーの艦隊は小柴沖まで入り込んで来ちゃったから、幕府側は浦賀に戻れと再三呼びかけるんだけど、ペリーは聞かない。
それもペリーの戦術だったのかしら?
そう考えるべきだろうね。しかも前回に続いて羽田沖あたりまで勝手に測量を始めた。これは「このまま江戸に乗り込むぞ」という意思表示でもある。
相変わらずの脅迫行為ね。ペリーは自分たちのペースに引き込みたかったのよ、きっと。
この辺の正直さというか、日本人の外交下手は昔からなんだなぁ。駆け引きを好まないのは美点でもあるんだけどね。結局、幕府側が折れる形で、急遽横浜村に応接所を作って、横浜での交渉ということでで何とか折り合いをつけた。
まずは前哨戦でアメリカ側のワンポイントリードってところね。
交渉がスタートしたのは嘉永7年(1854)の2月10日。応接所があったのは、今の神奈川県庁の辺りだ。左の絵を見てもわかるように、縁台に対座形式で腰掛けて、料理を出してもてなしていた様子がわかる。
何だか時代劇に出てくる茶店みたいな雰囲気ね。
当時の横浜はひなびた漁村で何にもなかったからね。準備する方は時間もないし、大変だったと思うよ。
でも、出来る限りもてなして、平和的に解決したいっていう空気は感じるなぁ。
幕府側の腹は決まっていた。当初の案は、アメリカ側の国書の要求にあった漂流民保護はOK。通商開始については準備を急いでも3〜5年はかかるということで引き延ばして、薪水の給与は長崎に限って許可するという線。2月4日の協議での最終案では、ちょっと譲歩していて、石炭・薪水・食料の供給と難破船の救助を認め、その供給と漂流者の送還に当たる港の開港は5年後、それまでは来年正月から長崎で実施するというものだった。
困った時だけは助けますよっていう、国交って言うには最低ラインギリギリっていう感じね。
アメリカ側の、ここで一気に通商条約まで持って行きたいという腹はわかりきっていたから、要は、幕府側が「通商」ではなく「人道的支援」ラインで逃げ切れるかどうかが鍵だったわけ。
林先生対ペリー提督の闘い、第一ラウンドのゴングね。
まずはペリーが漂流民や薪水の補給について「日本には人道意識があるのか」という「国際常識」論争をふっかけてきた。
その頃の日本って、漂流民とか漂流船にどんな対応をしていたの?
漂流民に対しては、各藩で保護したあと幕府の指示が下るまで拘留し、長崎を窓口として送還するというのが一般的だった。前回話した「日本オタク」ラナルド・マクドナルドの例を見てもわかるように、決して非人道的な扱いはしていない。ただ、漂流民の殆どは中国人と朝鮮人だったから、欧米人の取扱いに馴れていなかったのは確かだ。専用の収容施設を設けていたわけでもないしね。
じゃあ、逆にジョン万次郎みたいに日本人の漂流民が送還された場合はどうなの?
むしろそっちの方が厳しい。長期間拘留された上にどこで何をしていたかとか、キリスト教に入信してないかとかいろいろ尋問された上に、やっと故郷へ帰っても、余計なことを言わないように監視される。
酷いわね。せっかく命からがら帰って来たのに…。
実はそういったアメリカ人、日本人漂流民に関係する3つの船、モリソン号、ラゴダ号、ローレンス号の事件が、ペリーが日本側を「非人道的」だと批判する前提になっていたんだ。
ははぁ、何か良くない前例があったということね。
ラゴダ号はアメリカの捕鯨船で、嘉永元年(1848)に北海道近海で難破。30人中15人が生き残って松前に上陸した。松前藩の役人が事情を聞いた上で、小屋を作って収容。幕府に報告して指示を待った後、全員長崎へ移送された。長崎では英語の話せるオランダ商館長が聞き取り調査しているから詳しい記録が残っているんだけど、どうもこの15人は無礼で態度が悪く、その一部は松前でも長崎でも脱走を試みたので、最後は全員が牢に繋がれたらしい。しかも牢内で仲間割れを起こして一人が首をしめられて死ぬという事態になって、結局手を焼かせた13人(一人は病死)は10カ月後にオランダ商館経由でアメリカの船に引き渡された。
話を聞いていると悪いのはアメリカ人の方で、幕府側の扱いに問題はなかったみたいね。
食事もきちんと与えているし、粗末に扱ったわけでもないんだけど、アメリカでは「牢に入れられた」という事実だけが一人歩きして、虐待されたというイメージが広がってしまった。脱走騒ぎや殺人まで犯したという事実は知られずにね。
他の事件は?
ローレンス号の場合は弘化3年(1846)に択捉に漂着した、やはり捕鯨船の7名の漂流民で、こちらも1年半かかって長崎〜オランダ船経由で送還された。この事件も幕府側としても松前藩としても最大限の努力をしている。当時の通信手段は書状しかないから、幕府の許可が出るまでどうしても拘留期間が長くなるし、7人を北海道から長崎まで送るのは時間的にも労力的にも大変だったと思うよ。それを漂流民がどう感じたかは別としてね。
それなら、感謝されるならともかく、別に文句を言われるような話じゃないと思うけど…。
うん。ただねぇ、モリソン号の事件だけはちょっと複雑なんだ。
←「日本人亜墨利駕人応接之図」下田・了仙寺蔵